VESPA Rally180のフロアレールエンド四方山話 と 首なし地蔵・・・

いや~ 世間様は連休ですがVSHは休む訳にはいきません。
元祖ブラック自営業は今日も仕事です(笑)。

で、今日は昨日組み込んだVESPA Rally180のフロアレールエンドについて
追記したい事があります。

[こちらがそのフロアレールエンドです。
同じラージボディ用でも左右では若干の違いがありますよね。]

詳細は今日の動画でお話ししておりますので、
そちらをご覧頂ければと思うのですが、その前に今日はもうひとつ・・・

所用で出かけた際に『首なし地蔵・お抱え地蔵』と呼ばれている
『延命地蔵』へ行って来ましたので、こちらも少しご覧頂こうと思います。

[こちらがその『延命地蔵』です。古くは『首なし地蔵』と呼ばれていたそうです。]


[『首なし地蔵』の由来は入口の看板に記載されておりました。]
せっかくなので、看板の文字を起こしましたので以下でご確認下さい。

天保の飢饉は、同4年から7年余りに亘って長雨による水害や夏の冷害によって起こった長期で全国的な飢饉で江戸時代最大の飢饉であった。
大凶作が続き食物がなく餓死行き倒れ死者、疫病死者が続出した。

(キツイ内容なのでちょっと中略)

天保7年申歳は天保の飢饉で最も大きく、呉地方でも木芽葉や草の根を食べ飢えをしのいだという。
当時県北の山村の人々が食物を乞う為来呉したが宮原村海岸端や鍋峠付近で行き倒れ餓死したという。
それから20年位たって、その人々の遺骨が見つかった。篤信家の澤原八右衛門氏は之をあわれんで無縁仏を集め合葬し、宮原村海岸狐崎に地蔵尊をたてた。

その座右に「天保七申歳 餓死之遺體 合葬於此処 為菩薩営之安政4年10月 施主 澤原八右衛門」の碑文が刻まれてある。明治19年宮原村海岸一帯が海軍用地となって、地蔵尊は澤原家の所有地此処に移転安置された。此処は大正時代までは、呉と警固屋を結ぶ唯一の交通路の中間にあって鍋峠に通ずる山と谷に挟まれ曲がりくねった淋しい街道端で、此処から湧きでる「はまぐり水」は、当時鍋峠を越す人々の「のど」をうるおしていた。

ある日いたずらな若者が、勿体なくも地蔵尊の首をたたきもぎとって、谷間へ投げ込んだ。若者は日ならずしてその所業によって激しい腹痛を起こして狂い死したという。首の行方がわからず之を心配した信者達は、代わりの新しい首を作ってすえたが又首がなくなっていた。それから人々は「首なし地蔵」と呼ぶようになった。

その後2つの首がどこからともなくもどってきたので新しい首に新しい胴体を作って二体の地蔵尊を並べて祀った。昭和27年 堂守を置くことが定められ延命地蔵と命名された。同31年に100年祭を記念して弘法大師像を観音寺主管故寺下妙孝先生によって右側に安置された。毎月24日は縁日で萬願寺住職の読経が行われている。

との事です。

お地蔵さんの首を取ったため、祟りで死んでしまうというのは昔話のテッパンですが、
今も昔もバチ当たりな事をする輩がいるという事です。
また、どこからか首が2つ共戻って来たというのも不思議な話で、
今風でいうと『都市伝説』って感じです。

で、中に入ってみたところ、すぐに小さなお地蔵さんがいらっしゃいました。

[中に入ってすぐにいらっしゃる小さなお地蔵さんが『お抱え地蔵』さんです。
このお地蔵さんを抱えると病気が治ると言われており、地元ではとても有名なお地蔵さんです。
僕は撮影で10分位しかいませんでしたが、その間も2人の参拝者が来られていました。]

となると 『首無なし地蔵』さんはどこかな? と・・・ と思いました。
もしかしたら、『お抱え地蔵』さんが『首なし地蔵』さんなのかな? 
え、Wネームなの・・・ とも思ったのですが、
お堂の中を見たところ、奥にも3体のお地蔵さんがいらっしゃいました。

[こちらがその3体のお地蔵さんです。
先の案内看板によると『昭和31年に弘法大師像を右側に安置した』と書かれていたので、
お堂の中の左と中央が首なし地蔵さんで、右側が弘法大師さんかと推測します。]

但しコレはあくまで僕の推測ですから、もう少し調査が必要ですね。

ただ、ここのお地蔵さん達はとても穏やかな表情で、
パワスポ好きな僕としては大好きになってしまいました。
しかもこの場所は『海の家』から市内に戻る際に通るところにあるので、時間があればまた寄ってみて、
その際に誰かいらしたら詳しい話を聞いてみたいなぁ~ と思っています。

さて、今日も前置きが長くなってしまいましたが、
このあたりで今日の動画をご覧頂こうと思います。
『VESPA Rally180のフロアレール四方山話』と『首なし地蔵』です。
今日もお時間のある時にお付き合い頂ければ幸いです。
(この動画はブログ限定です。)

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